会議中の自分は「本当の自分」か? | 不問日報-号外

2012年8月21日火曜日

会議中の自分は「本当の自分」か?

会議にただよう違和感


会議のやり方については世の中にいろいろな本が出ていますね。私もいくつかの手法に興味を持って、実際に試し、効果を感じて継続的に使っているものがあります。ただ、手法はどうあれ、多くの会議には共通してこんなことを感じます。

  • みんな本音で話しているのだろうか?
  • あの人は意識は別のところに飛んでいるな
  • この人は何も話さないけど、何を考えてるのだろう?

そこに人はいるのですが、コミュニケーションの濃度が低く、場の納得感も少ないのです。一見すると決定事項やToDoなどが明確になって仕事は進むものの、「この会議って有意義だったのかな?」と思ってしまうことがあります。

これは、会議以前にコミュニケーションの土台ができていないせいなんじゃないか?と思います。とりあえず「お菓子外交」から始めよ、と言うのが今回のオチですが、それは後半にて。






会議中はみんな潜水している


私は松浦弥太郎さんの考え方が好きで、よく著書を読んでいますが、『軽くなる生き方』(サンマーク出版)に会議に関する内容がありました。以下は「大人数で集まる長時間の会議は、無駄である」の見出しで始まる部分からの引用です。

十人が集まって話し合いをするとしても、たいていの話の中心は一対一で、残りの九人は自分の番が回ってくるのをひたすら待っている、あるいは「関係ない」という不満を押し殺してつきあっているだけだ。

こういう空気感が、会議の気持ち悪さの代表格と感じます。

会議の場で本心を明かす人はほとんどいない。終わったあと、片づけをしながらポロリともれる言葉こそ本音だろう。
「なぜ話し合いの場でそれを言わないんだよ」と責めても仕方がない。大勢集まったところで、ぱっと気持ちを明かせる人のほうが絶対的に少数派なのだ。

「会議を実行支配する人」がいると、本音は出ませんよね。
「片付けをしながらポロリともれる言葉こそ本音だろう」これも実感があります。会議が終わってようやく息を吹き返すような、本当の自分に戻ったような感覚。会議中はまるで息を止めて潜水していたかのような。




「一対一のコミュニケーション」が基本


松浦弥太郎さんは、「話は一対一ですべき」と書かれています。

おたがいがもつ価値観、根底にある思いを共有するには、一対一でなければ不可能だ。だから僕は、会議はほとんどしない。
(…)
話し合うテーマが、企画でも会社の問題についてでも、細かい話は個別に一対一で話し合ったほうがよほど効果的だ。会議というのは、人数が増えれば増えるほど、時間が長くなれば長くなるほど、コミュニケーションの濃度が薄くなる。

一口に「会議」と言ってもいろいろな種類がありますので、一概に「一対一で」とは言えないと私は思います。ただ、会議について懐疑的な人が多い世の中(ダジャレではなく)、なんとなく行われている会議の多くは「一対一で」を検討する価値があるのではないかと思います。




雑談が本物のコミュニケーションを育てる


一対一となると面談のようで重い印象もありますが、日々の小さな雑談が、小さいながらも大事な一歩です。

一対一で話すといっても、いきなり心と心で話そうというのも無理な話だ。
「百の話をしたうち、二つか三つ、核心的な話ができていればラッキー」くらいのつもりで、気負わず気軽に絶え間なく、常日頃からいろいろな話をし、コミュニケーションをとるしかないだろう。
たとえばランチを一緒にして、「このごはん、おいしいね」「うん、おいしいね」という、なにげない話から始める。すると、おたがいが一歩近づけるかもしれない。僕が編集部員と一緒にお昼ごはんを食べる理由も、そんなところからきている。
「こういうおいしいものって、つくる人の気持ちが入ってないと無理だよね」
「おにぎりだって、コンビニとよそのうちと自分のうちじゃ、全然、味が違うよね」
こんな具合に、だんだん話が深まれば、二歩近づけるかもしれない。毎日、あれこれする雑談から、本物のコミュニケーションが育っていく。

もう少し引用を。

一対一で話すといっても、ひんぱんに食事をともにしたり、二人きりになったりする必要はまったくない。デスクの横でほんの数分、立ち話という程度でもかまわない。
気が遠くなるほど、まだろっこしいと感じるだろうか?
だが、ちょっと考えてみればすぐわかる。普段、ろくに話したこともない上司に、いきなり会議室に呼ばれ、「じゃあ、大事な話し合いをしよう」とおもむろに切り出された瞬間、人の心のシャッターはぴしゃりと閉じる。少なくとも、僕ならそうだ。

何かきっかけがない限り、普段仕事で話す相手というのは、当然ながら仕事を一緒にする人が中心になります。一緒に仕事をしない人とは、話す機会がなかなかもてないのではないでしょうか。

仕事上の悩みというのは、一緒に仕事をしている仲間に言い難い類のものもあります。そういうときに、ちょっと距離を置いたところで話ができる仲間というのは貴重です。逆に、そういう人がいないと自分の中にため込んでしまうこともあるでしょう。

会社には、「いいこと」は共有しやすいが、「悪いこと」は個人もしくは担当部署でブロックされるという性質がある。できないことを「できない」と言わずに無理をしているとか、新しいプロジェクトに不満があるのに、問題点については口を閉ざすといったことが、どの会社でもあるだろう。

この状態で、はたして本当に良い仕事ができるでしょうか。




「お菓子外交」のススメ


私はたまに「お菓子外交」をしていました。

連日遅くまで仕事をしている人や、顔色が思わしくない若者に「これでも食べなされ」とお菓子を渡しがてら、少し会話をするのです。そもそも上記のように、これまで引用したり、書いたりしてきたことを完全に意識できていたわけではありませんが、心ばかりの労いのようなものです。

人が流動的な業界だったので、会社を去る人もそこそこいました。最後の挨拶のとき、「あのとき声をかけてもらえて救われました」と言われた経験が何度かあります。

「お菓子外交」のように分かりやすいことばかりではなく、普通に立ち話をするだけでも同様です。ひいては日頃の挨拶もでしょう。仕事を一緒にしたことがない短期の派遣社員の方にも、「たまに声をかけてもらえるのが実はうれしかった」と言われたこともあります。自分ではよく覚えていないくらい、ほんのちょっとの接点でしたが、人の状況によっては大きな意味があるのだと思います。

たばこを吸う方は、喫煙所がそういうサロンになっていることもよくあるようですね。そういえば、一時期「エアたばこ」で喫煙所に出入りしていたことも・・。

ブロックされた「悪いこと」を、個人で抱え込むのは、しんどいものだ。誰一人そんなつらい目にあわないようにするためにも、一対一のコミュニケーションは欠かせない。
もちろん、四六時中、全員と個別にくっついているわけにはいかないが、折に触れてきちんと個人と個人で向き合っていると「手をつないでいる感じ」が生まれる。
「いつでも目を離さないというわけにはいかないけれど、ちゃんとあなたと手はつないでいるから大丈夫だよ」
こんなメッセージが伝わるコミュニケーションができれば最高だ。
会社というのは一つの船なのだから、みんなの見ている前で堂々と一対一で話すおおらかさが、健全なコミュニケーションを生み出す。



まわりにちょっと元気がなかったり、表情のおぼつかない仲間はいませんか。

もしいたら、部署や部門の垣根を越えて、少し話しかけてみてはいかがでしょうか。もし話しかけるのが難しければ、メールでも構いません。

少しの心遣いが、その人にとって救いになることがあります。