岡倉覚三『茶の本』岩波文庫 | 不問日報-号外

2012年11月28日水曜日

岡倉覚三『茶の本』岩波文庫

喫茶店巡りをしていて、ふと「茶」とは何ぞや? と思いたった。そこで思い出したのが、遠い昔読んだ『茶の本』。そんなきっかけで、恐らく10年ぶりくらいに再読。

以下、自分の思考メモ的な展開ゆえ、第三者に読まれる配慮は皆無であることを予め断っておく。文体が既に内向きモードになっているなぁ。


■自己広告について

男も女も何ゆえにかほど自己を広告したいのか。奴隷制度の昔に起源する一種の本能に過ぎないのではないか。(P.43)

ドキリとする。しかし冷静に・・。

これは消化できていないが、気になった一文。
何かと自己アピールを求められる世相ゆえ、ドキリとするものだった。たしかに、この妙な空気感に違和感をおぼえる自分もいる。スキルアップせよ!と言われる能力の多くは、プロ社畜になるための能力をひたすら磨くにすぎないのではないか?と指摘する人もいた。奴隷という表現はショッキングだが、冷静に考えよ、という警鐘を鳴らしているようにも感じる。

上記は「英語、IT、会計は”奴隷の学問”」と喝破した瀧本哲史さんの著書『僕は君たちに武器を配りたい』(講談社)。





■「虚」、「からっぽ」であることの万能性

個人を考えるために全体を考えることを忘れてはならない。この事を老子は「虚」という得意の隠喩で説明している。ものの真に肝要なところはただ虚にのみ存すると彼は主張した。たとえば室の本質は、部屋と壁に囲まれた空虚なところに見いだすことができるのであって、部屋や壁そのものにはない。水さしの役に立つところは水を注ぎ込むことのできる空所にあって、その形状や製品のいかんには存しない。虚はすべてのものを含有するから万能である。虚においてのみ運動が可能となる。おのれを虚にして他を自由に入らすことのできる人は、すべての立場を自由に行動することができるようになるであろう。全体は常に部分を支配することができるのである。 (P.45〜)

原研哉さんが主張する「emptiness」

虚、すなわち「空っぽ」は、日本デザインセンターの原研哉さんがよく主張されている「emptiness」を想起した。原さんは「simple」に対抗する日本的な概念として主張されているのだと思うが、しっかり見聞きしていないので、想像にとどまる。

原研哉さんの著書『白』は、「emptiness」に通じることが書かれているかもしれない。読んでないが。「白」も「虚」に近い概念のように思う。

広田弘毅の生き方に観る「虚」

おのれを虚にして〜の一文も気になる。偏見を持たないで、目の前のことをただ真摯に受け入れること、そのように生きる姿勢を示しているように感じられた。
ここで想起したのは政治家の広田弘毅。自ら事を図ることなく、ただ与えられた職務を全うし、国の中枢を担う立場にまでなった広田の生き方は感銘を受けた。城山三郎の小説の中での話だが。

広田弘毅を描いた城山三郎の小説『落日燃ゆ』。東京裁判で有罪を言い渡された唯一の文官。淡々とした生き方はしびれた。



■大傑作に宿る「虚」は鑑賞者を作品の一部にする

柔術では無抵抗すなわち虚によって敵の力を出し尽くそうと努め、一方おのれの力は最後の奮闘に勝利を得るために保存しておく。芸術においても同一原理の重要なことが暗示の価値によってわかる。何物かを表さずにおくところに、見る者はその考えを完成する機会を与えられる。かようにして大傑作は人の心を強くひきつけてついには人が実際にその作品の一部となるように思われる。虚は美的感情の極致までも入って満たせとばかりに人を待っている。(P.46)

自己再生を起こすアート、自己再生のための受信能力 

傑作とされるものは、すべてを語らない、与えない。観る者に感じ、考える余地を大いに与えている。六本木アートカレッジで聞いた大宮エリーさんの話を思い出した。アートに触れると、自分の中でストーリーが自己再生される、という件。
優れたアート作品は、人に「自己再生」のきっかけを与える。一方で観る側の「受信能力」も問われる。西きょうじさんの著書『情報以前の知的作法 踊らされるな自ら踊れ』でも、まず何よりも受信する能力が大事である、と指摘されていた。
「見るまえに翔べ」、「考えるな、感じろ。(Don't think, feel.)」。
おのれの考えを展開する前に、まずは偉大な物から何ものかを感じる受信能力を高める必要がある。漫画『日露戦争物語』では、日露戦争で活躍した秋山兄弟の生活が描かれている。兄・秋山好古は、若い弟・秋山真之が新聞を手にするのを見て「頭の固まらないうちに、新聞など読むな。」と言い放っていた。

情報収集とか発信の前に知っておきたい心構えが説かれている。正直、これを読んでからアウトプットに二の足を踏むようになった。

大傑作と駄作を観る意味

芸術については特に、本当に良いものを大量に観る必要があるのかもしれない。裕福な家庭に育った子どもは幼い頃から良いものばかりを目にしているために、いわゆる偽物をかぎわける目を持つようになる、とも聞く。
かたや、大学時代にデザイン言語で教わった佐藤勲さんからは「良いものを観ると同時に、醜いものも観なければならない。」との指導を受けた。善という概念は、悪という対立概念があってはじめて存在しうる。美醜においてもそれは真理だろう。
良いものを観るように努めながら、しょうもないものを観ることにも価値はある。醜いものを知るからこそ、美しいものを知ることができる。その逆もしかり。

本における「問い」も「虚」の一つ。

少し離れたところでは、「良い本には、良い問いがある。」という某読書師匠の話も思い出す。もしドラの著者である岩崎夏海さんも、NHKの「課外授業ようこそ先輩」で小学生たちに本から「問い」を見つける課題を出していた。
本における「問い」とは、読者に考えさせる「余地」だ。これは「虚」に通じるものであって、良い本には「虚」があると言える。「虚」という概念は広く通用するようだ。

エヴァも。

先ごろQが公開された「エヴァンゲリヲン」も「虚」に似た「謎」を多く含む。それゆえに売れ続けているのかもしれない。ATフィールドは心の壁だとか、なんだとか、観る者があれこれ解釈できる余地が多い。作者もそれは狙っているとの話を聞いたが、結局正解はないのだろう。答えは観る側が出すのだ。
まぁ、私はあの明朝体の漢字が多用されるインターフェイスや「第3新東京市」といったネーミングにしびれるわけで、仕事で理不尽なことがあったら「セカンドインパクトキタ━(゚∀゚)━!」とか言って遊ぶことに価値を見いだすわけだが。


劇場版は画のクオリティが高い。日本人として誇りに思う。とか言っておく。



■徹底的に掃除した庭に、木の葉を散らす

茶人たちのいだいていた清潔という考えをよく説明している利休についての話がある。利休はその子紹安が露地を掃除し水をまくのを見ていた。紹安が掃除を終えた時利休は「まだ充分でない。」と言ってもう一度しなおすように命じた。いやいやながら一時間もかかってから息子は父に向かって言った、「おとうさん、もう何もすることはありません。庭石は三度洗い石灯籠や庭木にはよく水をまき苔は生き生きとした緑色に輝いています。地面には小枝一本も木の葉一枚もありません。」「ばか者、露地の掃除はそんなふうにするものではない。」と言ってその茶人はしかった。こう言って利休は庭におり立ち一樹をゆすって、庭一面に秋の錦を片々と黄金、紅の木の葉を散りしかせた。利休の求めたものは清潔のみではなくて美と自然とであった。(P.57)

清潔、美、自然の三位一体

このあたりは茶道や庭師の仕事を深く知る必要がありそうなところ。
自然な光景を不自然につくっているようにも感じるが、掃除という不自然な行為に自然を戻しているとも考えられる。庭石も整然と並べられるのではなく、不揃いなものがランダムに並べられていることが多いけど、これも利休の考えに通じるものがあるのだと思う。
整然としたものは、清潔で美しいけれど、自然ではない。清潔、美、自然という三位一体が織りなす魅力の手前で止まっている。



■男にも「虚」の魅力?

日本の古い俚諺に「見えはる男には惚れられぬ。」というのがある。そのわけは、そういう男の心には、愛を注いで満たすえきすきまがないからである。(P.67)

隙やギャップが「虚」にあたる

ダメ男に対して「私がついていないと」と思う女性がいる。
どこか抜けた男性に母性本能をくすぐられる女性がいる。
隙のない(見せない)男に女性は魅力を感じない。隙も「虚」と言えるだろう。ギャップにやられてしまう人がいるが、ギャップも思っていた人物像と一瞬魅せる人物像の間に生まれる「隙」、「虚」が魅力ということかもしれない。



■審美主義の禅

茶の宗匠の考えによれば芸術を真に鑑賞することは、ただ芸術から生きた力を生み出す人々にのみ可能である。ゆえに彼らは茶室において得た風流の高い規範によって彼らの日常生活を律しようと努めた。すべての場合に心の平静を保たねばならぬ。そして談話は周囲の調和を決して乱さないように行わなければならぬ。着物の格好や色彩、身体の均衡や歩行の様子などすべてが芸術的人格の表現でなければならぬ。これらの事がらは軽視することのできないものであった。というのは、人はおのれを美しくして始めて美に近づく権利が生まれるのであるから。(・・)それは審美主義の禅であった。(P.84)

はりつめる美への緊張感

背筋が伸びる一節で、まさに禅と美の融合という印象。
美しいものには、美しいものとして臨む必要がある。
ただならぬ緊張感をおぼえる。

空間の質がアウトプットの質を規定する

好きなプロダクトデザイナーの一人に深澤直人さんがいる。
深澤さんの事務所は掃除から始まるのそうで、曰く「気持ちのよいものは、気持ちのよい空間からしか生まれない」と。この言葉は刺さった。今でも忘れられない。掃除を業者に任せるのではなく、自分たちの手で行うということも大きいだろう。掃除を通して、美しい空間をつくるという精神を日々養っているのだと思う。
このエピソードを知ってから、前職では、できるだけ自分のスペースや周囲を掃除するように心がけていた。基本的には業者さんがやってくれていたが。
そういえば私の出身大学も、やはり業者さんによるものだったが、掃除が徹底されていた。道はきれいだし、落書きの類もほぼなかった。槇文彦さんという著名な建築家によるキャンパスだったせいもあるのかもしれない、と今思う。安藤忠雄さんは、その処女作にあたる住宅を定期的にチェックして「こんなとこに植木置くな」(想像の弁)と注意にしに行くとか行かないとか。
空間というものを拡大解釈すれば、職場の人間関係や会話ひとつひとつも該当するだろう。はたして自分は空間の質を高める存在だろうか? 貶めている存在だろうか?

深澤直人さんは無印良品のプロダクトも手がけている。意外に身近。

姿勢は哲学の教育になる

Appleストア銀座はスティーブ・ジョブズが細かくディレクションをしたという話を聞いた。詳細は忘れてしまったし、銀座の話だったかも定かではないが、店舗で使われているネジの一つが他のものと違う磨きになっており、そのために製品発表(開店?)を見送ると言い出したという逸話があった。
たかがネジ一つで・・というのが普通の感想だろう。ネジの磨きがひとつ違うくらい、大した影響はないはずだ。ただ、ここで見逃せないのはジョブズの美に対する姿勢である。細かいところに徹底してこだわる姿勢、それをAppleの社員や関係者は見て、知るのである。一種の社員教育だろう。会社の文化をつくる活動であったと言える。
組織を率いる者には、哲学を守る姿勢が肝要だ。


以上。